「自動車整備工場」の二代目女性社長という生き方

自動車整備業へと一直線に歩んできたその道のり/雨宮自動車工業

2018年11月26日
町工場を思い描く時、脳裏に浮かぶ代表的な業種のひとつが自動車整備工場です。どこの地域にもあり、油まみれで働く工員の姿が“勤勉な日本の労働者”をイメージさせるのでしょう。そんな日本の高度経済成長を支えた会社を事業承継し、新たな時代に向けて活力を与えようとする女性社長がいます。横浜の町の一角で昭和39年に創業した「雨宮自動車工業株式会社」代表取締役の小宮里子さんです。

雨宮自動車工業株式会社 代表取締役の小宮里子さん。創業者である実父から事業承継した二代目社長だ

町工場を思い描く時、脳裏に浮かぶ代表的な業種のひとつが自動車整備工場です。どこの地域にもあり、油まみれで働く工員の姿が“勤勉な日本の労働者”をイメージさせるのでしょう。そんな日本の高度経済成長を支えた会社を事業承継し、新たな時代に向けて活力を与えようとする女性社長がいます。横浜の町の一角で昭和39年に創業した「雨宮自動車工業株式会社」代表取締役の小宮里子さんです。創業時には映画「三丁目の夕日」を彷彿させる風景だった町工場はその後、工業団地に社屋を移し規模を拡大、成長しています。父の姿に憧れ、幼少の頃から自動車整備業の道へと一直線に歩んできた小宮里子さんに話を聞きます。

二代目社長として過去最高の業績に

ーー6月に決算を終えました。業績はいかがでしたか?

創業以来最高の年商を達成いたしました。苦しい期だっただけに感無量です。

ーーいろいろな課題を乗り越えての結果だと聞きました。

前期は人手不足だけでなく土地の購入などがあり、実際は大変な一年でした。

車を置くスペースを確保するために、隣接する広い土地の購入は長年の悲願でした。昨年、弊社工場の隣の角地が売りに出ていることを金融機関から情報を得て、躊躇なく購入しました。テナント賃貸も事業計画としていましたが、契約したコンビニの経営方針変更により契約解除、和解交渉など本業以外にも時間と労力を費やすことになりました。

一方、本業の自動車整備工場は、長年勤めていた自動車整備士の退職などにより、人材不足に陥りました。家賃も入らない、マンパワー不足により売上も上がらないかも・・・大変になってしまいました。

ーーどうやって解決したのですか?

不動産賃貸については、幸運にも和解成立直後にお取引先様から「土地を貸して欲しい」というご依頼があり、契約していただきました。

人手不足については自分たちの力で工夫できることから始めました。外注さんに頼む、助っ人に入ってもらう、残業をこなす、私自身も現場に出る。それらでなんとかまかないました。その後、長期間のリクルート活動が実り、若手整備士を採用することができました。マンパワーが充足し順調に売上を伸ばし、雨宮自動車の50余年の歴史で過去最高の年商を達成しました。

雨宮自動車工業は1964年の創業。1988年に現在の場所に社屋を移し規模を拡大した

ーー小宮さんが社長に就任して今年で8年目です。

実の父が創業者で、私は事業承継した二代目になります。父はいま会長ですが、代表権は私一人に譲ってくれました。私は結婚して小宮という姓になったため、旧姓の雨宮と小宮を混同して「小宮自動車」と思われている方もいらっしゃって(笑)。

ーー女性で自動車整備工場の社長は少ないように思います。

私は4歳の頃からすでに父の後を継ごうと決めていました。16歳の高校生の時には、作文に「私は父の後を継ぎたい」と書いていました。中高一貫の女子校で自動車雑誌を読みあさり、「自動車整備学校に入りたい!」と言っていたのです。当時は皆が「蝶よ花よ」の時代で、母親は私が女子大生になることを望んでいましたが、結局、一刻も早く社会にでたい一心で、高校卒業後は自動車整備の専門学校に入学しました。

専門学校を卒業してまず地元の自動車ディーラーに勤めました。女性のメカニックの採用はなく、退屈で1年で辞め、1987年、雨宮自動車に正式入社しました。

2011年に事業承継し社長に就任した小宮さん。「町工場から離脱しないと生き残ってはいけないと感じていました」と語る

「三丁目の夕日」的な原風景が自動車整備の道を選ばせた

ーー自動車整備業の何がそれほどに小宮さんを惹きつけたのですか?

父が楽しそうに商いをしていたんです。当時は社長という呼ばれ方もしておらず、「親父」と呼ばれていました。工員の数は3人ほどでした。

雨宮自動車修理工場 横浜市南区二葉町1丁目1番地。ここが私の原点です。穴倉みたいな工場でした。昭和39年(1964年)の創業で、工場周辺の風景は映画「三丁目の夕日」のような感じでした。工員が自転車に乗って私の家まで朝ごはんを食べていました。母親がご飯を出すと、彼らは真っ黒い爪で生卵をばりっと割って食べるんです。私にはそれがとても格好良く見えました。

母が経理をしていたので、幼稚園に入る前は工場についていっていました。油が混ざり虹色を映す工場の水を日がな一日ながめたり、コロコロと転がってくるボルトを拾ったり。いつかこの場所で働きたいとずっと思っていました。今も昔も油の匂いを嗅ぐと気分が上がります。

ーー社長になるまではどんな社員だったのですか?

88年に今の場所に会社は引っ越しました。だいたい平成と重なっています。規模を拡大するために移ってきたのはいいのですが、仕事はそんなになく初めのうちはガラガラでした。時代が後押ししてくれたことやお客様との良いご縁により、順調に事業を拡大していきました。

97年に結婚し子育てをしながら働きました。できることはなんでもやりました。現場だけでなく、注文の電話を取る、お客様の車を取りに行く・・・。夜は家で手書き伝票を記入した後、洗濯そうじをして。朝から晩までそんな感じでした。町工場から離脱しないと生き残ってはいけないと感じていました。それで整備のほかにフロントや営業を分業するようにしていきました。2011年2月に長男の中学受験が終わったのを契機に、「もうそろそろいいんじゃないか」という父の申し出を受け、私が代表を継承しました。

ーー事業承継をどう受け止めましたか?

26年間、ずっとナンバー2だったので、特段の思いはありませんでした。経理のこと以外はすべてわかっていましたから。社長に就任した直後に東日本大震災がありました。官公庁などの車や電気・電話工事関連といった「働く車」、つまり特種車両を得意としているので、被災地への出勤準備で大わらわでした。

社内改革も行ってきた。「徹底的な顧客管理、スケジュール管理をすることでシフトが組めるようになり、休みを増やせるようになりました」(小宮さん)

ーー社長業を始めてから、どんなことが記憶に残っていますか?

通常業務は普通にできていたと思います。しかし、銀行との交渉、地元の経営者の集まりなど外に出て行く場面では、気後れを感じることもありました。二世三世の経営者の多くは何でもスマートにこなします。私は朝から晩まで会社にいたので、外交の経験が少なかった。それが私の強みであり弱みでもあると実感しました。

会社は順調に成長していきましたが、お客様からお預かりしている車が満杯になって路上駐車すらするようになっていました。外からは繁盛しているように見えるわけですが、このままでは会社は絶対ダメになってしまう、このままではいけない、と強く思うようになりました。そこで、土地を探し始めたのです。

メインバンクに新たな土地が欲しいことをアピールしていたのですが、帯に短し襷に長しでなかなか条件が合いません。しかしその後、弊社に営業で通われていた横浜信用金庫の課長さんから「隣の土地が売りに出ています!」というご連絡をいただきました。土地についての話をしてから2年ほど経って、ある日突然です。その時、生まれて初めての武者震いを経験しました。

先代が信頼を積み重ねてくれたメインバンクを変えることについては、私も悩みました。会長夫妻に相談に行くと、会長は「ご縁だから」と言ってくれました。代表権を私一人に譲ったことを尊重してくれたのです。会長には本当に感謝しています。

自動車整備技術コンサルタントというプライド

ーー社内改革も行っていますね。

これまでは社員がなかなか休みを取れなかったのですが、徹底的な顧客管理、スケジュール管理をすることでシフトが組めるようになり、休みを増やせるようになりました。このままでは社員が疲弊してしまうという危機感が私の中にありました。来年はもっと休日を増やしたいと思っています。

ーー会社案内には「神奈川県随一の整備工場」というコピーが記されています。

2016年には「自動車整備技術コンサルタント」の資格を取得しました。1級整備士をとらなければ受験できない資格です。この看板を掲げられる整備専業工場はこのブロックでは弊社だけです。自動車整備技術についてもコンサルティングスキルについても、地域ナンバーワンであるという証しです。

自動車整備技術コンサルタントは15年前ほど前にできた制度です。取得のために足掛け6年かかりました。社長就任直後の時期でしたが、人生、後悔したくなかったからどんなことがあっても合格しようと頑張りました。

自動車整備士は2級をもっていれば、一人前と言われます。整備工場も開業できます。だから「1級を取る必要があるの?」といぶかる人もいるでしょう。弊社は整備専業工場のため自動車メーカーの後ろ盾がありません。様々な車種を扱えるというメリットの反面、後ろ盾がないぶん各メーカーの自動車の特性や新しい機能についての情報が十分でない場合があります。しかし1級整備士という資格を取っている者には、プロの同業者はきちんと質問に対して答えてくれるので、情報収拾の面からも大きな役割を果たしてくれます。

2016年には「自動車整備技術コンサルタント」の資格を取得。自動車整備技術についてもコンサルティングスキルについても、地域ナンバーワンであるという証しだ

電気自動車の時代に生き残る道を模索する

ーー電気自動車の時代がもう目の前です。整備工場の役割はどう変わっていくのでしょう。

難しくなることは間違いありません。日本では、車の数自体が減っています。自動運転車ではブレーキも減らなくなりますし、消耗品の交換も減ってくる。交通事故も減るはずです。われわれが修理・整備できるところは少なくなります。

自動ブレーキにはセンサーがたくさん付いています。これまでは例えば「バンパーが曲がっちゃったんだけど適当に直しておいて」というオーダーもありえましたが、いまは正確にまっすぐに直さないとセンサーが誤反応してしまう。取り替えるにしてもエイミングといってハイテク技術の基準に合わせないといけない。そこについていくのはかなり大変です。

とはいえ、一般乗用車に比べると、特種車両車には進化のタイムラグがあります。特種車両は非常に高額なので、そう簡単に買い換えられる製品ではありません。

社員にはこのように話しています。

「自動車の進化においては、これからの50年はいままでの50年の何倍速にもなる。だからもっと勉強しないといけない。でも特種車両のタイムラグを考えれば、必要以上におびえることはない。整備工場は淘汰されて減っている、整備士も減っているので、ここ10〜20年の間は、自動車整備士はありがたがられる職業になるはずである」

未来は常にどうなっていくかわかりません。私も経営者として、そして1級整備士として勉強を怠るわけにはいきません。会社や社員たちが勝ち残るために未来を見据えていかなければならないと考えています。

ーーひとりになった時に読む愛読書はありますか?

好きな作家は林真理子さんや五木寛之さん。五木さんは車がお好きということもあります(笑)。最近では「ハゲタカ」のテレビドラマをビデオに撮りためて観ています。でも誤解を恐れずに言うと「聖書」です。聖書を読んで気持ちを整えることがあります。

私は、すべてのことは愛と感謝で完結すると思っています。感謝は便利なんですよ、大変なことがあっても全部感謝すればいいんです(笑)。愛と感謝はすべてに通じる。お客様にも、社員にも、苦しい時にも。私がぎりぎりのところでいつも想うのが、愛と感謝です。

「すべてのことは“愛”と“感謝”で完結する、と常に思っています」(小宮さん)

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執筆者: 加藤陽之 - HANJO HANJO 編集長
コンピュータ関連の出版社からキャリアを始め、カルチャー雑誌などの編集長を歴任。これまで数多くの著名人をインタビューしてきた経験を活かし、HANJO HANJOでは中小企業経営者の深く掘り下げた話を引き出し続ける取材の日々。

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