戦後、米軍のジョンソン基地が置かれた埼玉県入間市では1950年代、多くの米軍ハウスが建設されましたが、1978年基地返還に伴い大半は廃業。空き家を日本人に向け賃貸住宅に転換した磯野住宅も借り手は高齢者や低所得者などで、家賃を滞納もする者も少なくなくありませんでした。施設の老朽化も進み、気づくと街区は荒廃、地元では磯野スラムと揶揄されるようになっていました。
1996年事業を引き継いだ磯野達雄氏は磯野住宅の復興策を検討し始めます。有効な土地活用を考えれば、古い建物を取り壊し、収益性を重視した高層マンションなどの集合住宅の建設を考えるのが一般的です。達雄氏も一度その可能性を探りましたが、拙速に走ることなく、別の可能性について情報収集と分析を続けました。
実は達雄氏が事業を引き継いだ時、入居者の平均年齢は70代、家賃の滞納額も数千万円に膨れ上がっていました。そのため復興策と並行してこうした負の処理を行う必要がありました。しばらくは復興策と負のスパイラルを止める方策に並行して取り組む日々が続きました。
そうした中、意外なところから磯野住宅への引き合いが増えてきました。それはそれまでの入居者とは異なる若い人からの問い合わせで、達雄氏はその理由を考え、分析します。すると米軍ハウスに憧れる若者カルチャーが浮かび上がってきました。当時、米軍ハウスには芥川賞作家の村上龍氏などのクリエイターやYMOの細野晴臣氏などのアーティストが住み、新たなカルチャーの発信地として注目を集め、若者が憧れるカッコいい存在になっていたのです。達雄氏は一つの光明を見出します。